貨幣と市場と戦争、そして国家の腐れ縁は時代をくだってもつづいている。たとえば、世界初の近代的中央銀行であるイングランド銀行は、もともと戦争への融資の必要から生まれた。
こうしたところからも、市場は国家とは関係ないどころではないのだが、それは密接不可分の資本制生産様式の支配する近代になっても変わるところはない。
もちろん、18世紀の啓蒙思想家たち、とりわけアダム・スミス以来、あたかも市場には自己規制能力があるかのような、そして国家はその厄介な障害物であるかのような発想も普及してきた。しかし、実態はそれとはほど遠い。
考えてみてもわかるだろう。ヘンリー8世の時代のイギリスと、19世紀の「レッセフェール」のイギリスでは、どちらが官僚制の規模が大きかっただろうか? そもそも警察組織なる典型的な国家的官僚組織についても、19世紀以前には知られることがなかったのである。
ネオリベラリズムの帰結としてのブルシット・ジョブ
商業的市場は、そもそものはじまりにおいて国家に密着していたのみならず、その市場の維持と運営にはつねに国家のようなものが必要とされてきた。資本主義社会におけるその未曾有の拡大が、必然的に官僚制の拡大をともなうのはこのためである。
これをグレーバーは、「リベラリズムの鉄則」と呼んでいる。
「リベラリズムの鉄則とは、いかなる市場改革も、規制を緩和し市場原理を促進しようとする政府のイニシアチヴも、最終的に帰着するのは、規制の総数、お役所仕事の総数、政府の雇用する官僚の総数の上昇である」。
ネオリベラリズムは、そのようなリベラリズムの鉄則を極限まで拡張するものである。カフカ的悪夢は20世紀の遺物ではない。官僚制につねにつきまとってきた「非効率」「不合理」そして「不条理」は、未曾有のレベルにまで達しつつある。ただし、そこにはカフカ的不条理の悲劇もおかしみもなく、ただただ空疎なあかるさと途方もない精神的・物質的荒廃が広がっているだけなのだが。
そして、そのひとつの帰結が、ブルシット・ジョブの蔓延なのである。
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注記:この記事を準備している最中に、デヴィッド・グレーバーの訃報に接した。筆者は、悲しみにくれている。また、かれの仕事の意味、そしてかれの死の意味については、あらためてどこかに書くこともあるだろう。ここでは、最後にその早すぎる死への哀悼だけを記しておきたい。