【解説】 タリバンとは何者か 米軍撤収のアフガニスタンで復権 - BBCニュース

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Aug 16, 2021 10:40 PM
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アフガニスタン東部ラグマン州を歩くタリバン戦闘員たち(2020年3月)
アフガニスタンで政権を握っていたタリバンは2001年、アメリカ主導の軍によってその座を追われた。だがここ数カ月間、攻勢を続け、ついに権力を奪還したと宣言した。
アメリカは20年間にわたる戦争の末、9月11日までに完全撤収する方針でいる。その間、武装勢力のタリバンは主要都市を次々と制圧。首都カブールも支配下に置いた
タリバンは2018年にアメリカと直接交渉を開始した。2020年2月には、カタール・ドーハでの和平交渉で双方が合意。米軍が撤収する一方、タリバンは米軍への攻撃をやめるとした。タリバン支配地域において過激派組織アルカイダなど武装勢力の活動を認めないことや、国内での和平交渉を進展させることも盛り込まれた。
しかしタリバンはその後、アフガニスタン治安部隊や一般市民への攻撃を続け、国内各地で急速に勢力を拡大した。
パシュトー語で「学生」を意味するタリバンは、アフガニスタンから旧ソ連軍が撤退した後の1990年代前半に、パキスタン北部で出現した。パシュトゥーン族がメンバーの多数を占めている。イスラム教スンニ派の強硬路線を説く、サウジアラビアの資金を受けた神学校で最初に誕生したとみられている。
パキスタンとアフガニスタンにまたがるこのパシュトゥーン地域でタリバンは、政権を握れば平和と治安を回復させ、独自の厳格なシャリア(イスラム法)を導入すると約束した。
タリバンは影響力を、アフガニスタン南西部から急速に広げていった。1995年9月には、イランと接するヘラート州を占拠。そのちょうど1年後には、首都カブールを掌握し、当時のソ連の占拠に抵抗したアフガニスタンのムジャヒディーン創設者の1人、ブルハヌディン・ラバニ大統領の政権を追放した。1998年には、アフガニスタンの90%近くを支配下に置いた。
ムジャヒディーンの横暴や内紛に嫌気が差していたアフガニスタン人は、タリバンが最初に登場した時、おおむね歓迎した。汚職を撲滅し、無法状態を改善させたほか、道路を作り、支配地域の安全を確保して商売を活発化させたことなどから、当初は支持された。
しかしタリバンは、独自の厳格なシャリア法の解釈に沿った罰則を導入、もしくは支持した。殺人や不貞の罪を犯した人を公開処刑し、窃盗で有罪となった人の手足を切断した。男性にひげを伸ばすよう命令し、女性には全身を覆うブルカの着用を義務付けた。
タリバンはテレビや音楽、映画を禁止。10歳以下の少女が学校に通うことも認めなかった。こうしたことから、人権や文化を侵害していると、非難が集中した。2001年には、アフガニスタン中央部バーミヤンの有名な仏教遺跡を、国際的な非難の声が高まる中で爆破した。
カンダハール州とヘラート州を結ぶ高速道路を掌握したタリバン戦闘員(カンダハール市の近く、2001年10月31日)
パキスタン政府は、自分たちがタリバンを創設したわけではないと繰り返し主張している。だが、初期のタリバンに加わった多くのアフガニスタン人が、パキスタンのマドラサ(宗教学校)で教育を受けたのはほぼ疑いない。
パキスタンはまた、サウジアラビアやアラブ首長国連邦(UAE)と並び、タリバンがアフガニスタンで政権を握っていた時期にそれを承認した3カ国の1つでもある。タリバンと外交関係を解消したのは、パキスタンが最も遅かった。
タリバンはある時期、パキスタン北西部の支配地域から、同国を不安定な状態に陥れると脅したことがあった。パキスタンのタリバンによる攻撃の中でも、大きな注目と国際的な非難を集めたのが、2012年10月にミンゴラで帰宅途中だった女子生徒マララ・ユサフザイさんが襲われた事件だった。
その2年後には、ペシャワールの学校で集団殺害を起こし、米軍などによる大規模な軍事攻撃が実施された。それにより、タリバンのパキスタンでの影響力は減少した。2013年にはパキスタンのタリバンの主要人物が少なくとも3人、米軍のドローン攻撃で殺された。うち1人はハキムラ・メスード指導者だった。
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マララ・ユサフザイさんは2012年10月にタリバンのメンバーに銃撃された
2001年10月7日、米主導の有志連合軍がアフガニスタンへの攻撃を開始。12月の第1週にはタリバン政権は崩壊した。世界最大規模の捜索活動が行われたが、当時の指導者ムハンマド・オマル師や、故ビンラディン容疑者ら重要人物は捕捉を逃れた。
2001年に米軍がトラボラの山岳地帯を空爆する様子を見る、反タリバンの戦闘員たち
多くのタリバン幹部はパキスタンのクエッタ市に避難し、そこからタリバンを指示していたとされる。「クエッタ評議会」と呼ばれたが、パキスタン政府はその存在を否定した。
アフガニスタンでは外国部隊の規模が増大したにもかかわらず、タリバンが影響力を回復し、拡大していった。国内の大部分が不安定な状況に陥り、暴力も2001年以降で最悪のレベルに増えた。
カブールでもタリバンによる攻撃が数多く発生。2012年9月には、北大西洋条約機構(NATO)のキャンプ・バスチョン基地を襲撃して大きく報じられた。
パキスタンのタリバンのハキムラ・メスード指導者は2013年に米軍のドローン攻撃で殺された
タリバンは2013年、カタールに事務所を開設すると発表。交渉による和平への期待が高まった。しかし、すべての関係者が深い不信感を拭えず、暴力はやまなかった。
2015年8月になって、タリバンはオマル師の死亡を2年以上隠していたと認めた。パキスタンの病院で健康上の問題から死去したとされた。その翌月、タリバンはしばらく続いていた内紛を終息させ、オマル師の右腕だった新指導者マンスール師を中心に組織としてまとまると表明した。
ほぼ同時期、タリバンは2001年の敗北以降で初めて、州都を制圧。クンドゥズ州の州都で戦略上の要衝となっているクンドゥズ市を支配下に置いた。
マンスール師は2016年5月、米軍のドローン攻撃で殺害された。ナンバー2だったマウラウイ・ハイバトゥラー・アクンザダ氏が最高指導者になり、現在もトップの座にある。
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標的となったのは、ジャーナリスト、裁判官、平和活動家、社会的地位のある女性だった。タリバンは過激思想を変えず、戦術だけ変えた様子がうかがえた。
アフガニスタン政府関係者らからは、国際的な支援なしでは政府はタリバンに対してもろいとの深刻な懸念が出ていた。しかし、アメリカのジョー・バイデン大統領は2021年4月、すべての米軍部隊が、世界貿易センター崩壊から20年に当たる9月11日までに撤退すると発表した
タリバンは20年にわたる戦争で超大国の攻撃に耐え抜き、広大な地域を掌握した。そして外国部隊が撤退を始めると、再び政権を倒したのだった。
タリバンの現在の規模は、2001年に政権を失って以降最大で、最も人員が多いとみられている。フルタイムの戦闘員は最大8万5000人だとNATOは推定している。
進攻のスピードは大方の懸念より速かった。米軍主導のアフガニスタン駐留部隊のオースティン・ミラー司令官は6月、アフガニスタンが混迷状態の内戦に向かいかねず、「世界にとっての懸念」だと話していた。
だが多くの場合、タリバンは主要都市を戦闘せずに手に入れている。市民の犠牲を出さないよう、政府軍が投降したからだ。
米情報機関は6月、アフガニスタン政府は米軍が去ってから6カ月以内に倒れると結論づけたと報じられていた。

アフガニスタン情勢の変化:アメリカの作戦展開とタリバンの進攻

2001年10月: 9月11日の米同時多発テロを受け、ブッシュ米政権主導によるアフガニスタン空爆開始
2009年2月: アメリカはさらに兵士1万7000人の増派を決定。NATO加盟国もアフガニスタンへの増派などを約束
2009年12月: バラク・オバマ米大統領(当時)は、アフガニスタン駐留軍を3万人増員し、計10万人に拡大すると決定。一方で、2011年までに撤退を開始すると表明
2014年10月: アメリカとイギリスが、アフガニスタンでの戦闘作戦を終了
2015年3月: オバマ大統領が、駐留軍の撤退延期を発表。アフガニスタンのアシュラフ・ガニ大統領の要請を受けたもの
2015年10月: オバマ大統領が、2016年末までは兵士9800人をアフガニスタンに残すと述べた。これ以前は、1000人を残し全軍を撤退させると約束していた
2016年7月: オバマ大統領は「安全保障上の不安定な状態」を理由に、2017年には米兵8400人が駐留すると発表。NATOも駐留を継続することに合意したほか、2020年までアフガニスタン政府軍への資金援助を続けると強調した
2017年8月: ドナルド・トランプ大統領(当時)が、タリバンの勢力拡大を受けた増派表明
2019年9月: アメリカとタリバンの和平交渉が決裂
2020年2月: 数カ月におよぶ交渉の末、アメリカとタリバンがドーハで合意に至る。アメリカは駐留軍撤退を約束
5月: タリバン、南部ヘルマンド州でアフガニスタン軍へ大攻勢開始
6月: タリバン、伝統的な地盤の南部ではなく、北部で攻撃開始
7月2日: カブール北郊にあるバグラム空軍基地から、米軍やNATO加盟各国軍の駐留部隊の撤収完了
7月21日: タリバンが半数の州を制圧と米軍幹部
8月6日: 南部ザランジの州都をタリバン制圧。タリバンが新たに州都を奪還するのは1年ぶり
8月13日: 第2の都市カンダハールを含め4州都がタリバン支配下に
8月14日: タリバン、北部の要衝マザーリシャリーフを制圧
8月15日: タリバン、東部の要衝ジャララバードを無抵抗で制圧。首都カブール掌握