政治的エコロジー 、自由についての倫理: アンドレ ゴルツとの会談 - AlterInfos - DIAL

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☆☆☆:議論用ではない
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ある特定のオピニオンが述べられる
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Sep 20, 2020 08:38 AM
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考察的・思想的
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調査、データ、観察的
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これはAndré Gorz [アンドレ ゴルツ]と Marc Robert [マーク ロバート] による会談で、2005年秋冬、EcoRev’ 21号「Figures de l’écologie politique」に掲載された。
サルトルによって序論が執筆された自伝小説『Le Traître』を刊行し、政治的エコロジー主義を宣言するに至るまで、どのようなことに強く感化され、誰との出会いに大きく影響を受けましたか。
そうですね、サルトルとの出会いから受けた影響は非常に大きかったです。1943年以後彼の著書をとおして20年間沢山のことを学びました。1971年以後にはイリイチとの出会いが挙げられます。彼との出会いにより5年に渡って色々なことを考えさせられました。しかし、もっとも影響を受けた出会いというのは必ずしも当時影響力のあった人との出会いというわけではありません。Jean-Marie Vincent [1] [ジャン•マリ•ヴァンセン] 、彼はあまり出版活動はしていなかったのですが、1959年以来 、彼の影響で『グリュントリッセ』 [2] (『経済学批判要綱』) を書いたころのMarx [マルクス] に傾倒しました 。またイタリアの理論家たちを紹介してもらい、さらに彼らにも他の理論家たちを紹介してもらいました。1990年代には彼が創刊した雑誌『Futur Antérieur』 [3]により、彼は私にそれまでの私の考えを再考しなければならないと説得しました。2年前には、あるドイツ紙のための『L’Immatériel』に関するインタビューの後で、ハッカーであるStefen Meretz [4] [ステファン メレッツ] と出会いました。彼はOekonuxの共同創設者です。彼は、実際に行動し、切望し、考えることによって、資本主義から抜け出すことの難しさに真っ向から向き合った人です。
しかしながら1947年以後、今まで、私が強く絶えることなく影響を受けてきたのは「Dorine [ドリン] 以外にはいません。」彼女は私の連れ合いであり、私に愛すること、愛されること、感じること、生きること、自分自身に自信をもつことは不可能ではないということを教えてくれました。私たちは共に成長し、切磋琢磨しあいました。彼女がいなければ、おそらく、私は自分自身を受け入れることはできなかったでしょう。それから、サルトルとの出会いがなかったら、私の家族やその問題によって私に引き起こされた事態を考え、克服するための手段を、私はおそらく見つけることはできなかったでしょう。『L’Être et le Néant』 (『存在と無』) と出会って気がついたことは、サルトルが人間の存在条件について述べていることは私が経験したことに通じるということです。私は早くも幼年時代初期には「実存的体験」をすべて経験しました。不安、倦怠、虚無感、そして自分自身が他者の期待にそぐわず、また自分自身を他者に理解させることはできないという確信です。つまり、主体全てが偶然的に存在し、その存在を正当化することはできず、皆全て孤独であるということを経験しました。
実存主義とエコロジーとの関係、道徳や倫理とエコロジーとの関係についてもう少し詳しく話して頂けないでしょうか。
主体という議論はサルトルにとってそうだったように、私にとっても、以下述べる観点において主要な問題であることに変わりありません。主体としての我々自身に目覚める、つまり他者や社会が我々に期待し、容認するような存在に簡略化されることを断固として拒む主体としての自分自身に目覚めるという点においてです。我々は教育、社会化、訓練、統合教育を通して、他大勢の中の他者として生きることを習得し、社会化することができない自分自身つまり主体である自分自身を生きるという試みを否認し、自分の生命と欲望を標識化された人生行路に埋め込み、巨大機械化社会が我々に強く課してくる役割や機能と自分自身を取り違えるようになります。
我々の他者としての素性を規定するのはこの役割と機能です。この役割と機能は我々一人一人が自分で生きていくために許容できる範囲を超えるものです。そして我々が自分自身として存在し、自己の行為の意味について自問し、その責任を負うことを抑制したり、あるいは禁じたりもします。行動を起こすのは「私」ではありません。他者としての自己を介して行動を起こし、巨大機械化社会の生産と再生産のために私を奮起させるのは、社会を自動的に構成するための論理 なのです。巨大機械化社会こそが紛れもない主体なのです。その支配力は被支配階級と同様に支配階級の成員にまで及んでいます。支配者たちは忠実な役人として巨大機械化社会に仕える限りでは、非支配階級を支配しています。道徳的な問題を提起することができる自立的主体が突如として現れるのは、巨大機械化社会の隙間や、社会からの落伍者や、アウトサイダーからだけです。道徳的な問題の提起は、我々が社会から強いられることに抗し、我々の主体を作りあげる行為がつねに発端となります。若い頃にサルトルを学んだトゥレーヌはこのことを以下のように大変旨く述べています。「主体はいつも性悪な主体であり、権力や規範、完全な装置ともいえる社会に対する反逆者である。」主体の問題というのは従って道徳的問題と同じことなのです。根本的には、それは倫理的問題であり、政治的問題でもあるのです。というのも、主体の問題は必然的に支配の形態と手法の全て、つまり、人間が主体として行動することを妨げ、人間に共通する究極的な目的である個性の解放 を追求することを妨げるすべてが議論の的になるからです。
我々が仕事において支配されているということは、170年に渡って明らかなことです。しかしながら、我々が我々の欲求や願望、我々が我々自身について抱くイメージや考えに支配されていることは明確にはされていません。この論題はすでにLe Traître [5] (『裏切り者』) の中で論じ、またそれ以後の私のほぼ全ての文献の中で再々と詳しく述べています。私が先駆的エコロジストとなったのは、この論題、つまり豪奢な消費のモデルにたいする批判によってであります。私の出発点は1954年頃にアメリカの週刊誌で発表した論文でした。論文で取り上げたことは、米国の生産能力の評価を引き上げるというのは、その後8年間で消費量が少なくとも50%増大しなければならないことになりますが、人々にはいったいどのように消費量が更に50%も増大するのか明らかではありませんでした。消費者に新たな欲求、願望、幻想を呼び起こし、陳腐極まりない商品でも需要を増やすようなシンボルを付すのが、マーケティングや広告のエキスパートたちの役目でした。資本主義にとって不可欠なことは人に強い欲求を抱かせることでした。さらに詳しく言うと、資本主義は最も収益の上がる方法でこれらの欲求を形成し発達させ、たくさんの無駄なものを必需品目に組み込み、製品の陳腐化を促進させ、耐久性を劣化させ、わずかな欲求を最大限の消費で満たすことを強い、個別的消費を促すために、 集団的な消費やサービス (例えば、市街電車や列車) を撤廃しなければなりませんでした 。資本利益をあげるためには、消費は個別化され、私有化されなければならないのです。
資本主義の批判を始めると、必ず政治的エコロジーについて言及することになります。この政治的エコロジーとは、欲求について批判するうえで欠くことのできない理論によって、資本主義への批判をさらに掘り下げて先鋭化させるような理論です。従って、エコロジーについての倫理があるというのではなく、むしろ、主体解放の倫理的必要性は、政治的エコロジーが重要な意義をもつ理論的で実践的な資本主義批判を前提としています。もし反対に環境保護の必要性 から議論をはじめても、ペタニズム 、エコファシズム、または自然共同体主義に言及するのと同様に、急進的反資本主義にも言及することになります。エコロジーが倫理的で批判的な力をもつのは、限られています。つまり、地球破壊あるいは生命の自然基盤破壊が一つの生産方式の結果だと理解され、しかもこの生産方式により最大限の効率化が求められ、生物学上のバランスを侵す科学技術が必要とされる場合です。従って、人間や自然に対する支配が具現化されている技術についての批判は、自由解放倫理の重要なポイントの一つだと思っています。
私のテクノロジー批判への関心は、1960年に読んだSartre [サルトル] のCritique de la raison dialectique (『弁証法的理性批判』) や、同じ時期に東ドイツで10日間過ごたこと、また、労働者による権限行使の芽生えつつある息吹を、結局は無駄に終わりましたが、探しもとめて工場を訪れたこと、それから、1971年または1972年から、La Convivialité [6]の第一稿となったRetooling Societyと題されたイリイチの論文と出会ったことによる部分が大きいです。イリイチは2種類の技術を区別していました。つまり、彼がコンヴィヴィアル (conviviale) と呼ぶ自律的領域を増やす技術と、自主的領域を制限したり廃止したりする他律的な技術を区別しています。私はそれらを開放的テクノロジーと閉鎖的テクノロジーと呼んでいます。開放的テクノロジーとは電話や現在の無料ネットワークやソフトウェアのように、コミュニケーション、協力援助、インターアクションを助長するものです。閉鎖的テクノロジーとはユーザーを封じ込め、ユーザーの操作処理をプログラム化し、製品やサービスの供給を独占するものです。
最悪なことに、封鎖的テクノロジーは、人間から生活環境を奪い去り、人間自らを人間の支配下に置くメガテクノロジーで、自然支配への金字塔であることは明らかです。私が10年に渡って反原子力キャンペーンを率先して進めたのは、原子力エネルギーの欠点はもちろん、原子力エネルギーが社会に及ぼす機密、虚偽、暴力といった包括的影響によります。
資本主義に対して先鋭的な批判論を繰り広げておられですが、共産主義の立場をとり、その後この立場を放棄しておられますね。
Écologie et Politique』 (『エコロジーと政治』) の後記として出版した 『Écologie et Liberté』 (『エコロジーと自由』) は、次のような言明により始めています。「社会主義というのは、その手段を変えない限り、資本主義を超えるものにはなりえない」。次の著書『Adieux au prolétariat』では、同様の意味において、更に一歩進めて述べています。つまり、資本主義の生産手段というのは、その生産手段が必要とする職務、あるいは、その生産手段によって実現可能となる職務を分割して組織化し、階層化させることによって支配する手段であると主張しました。軍人も同様で、全ての組織形態と規律をすっかり完全に変えない限り、軍隊をわが物とすることはできないのです。また労働者階級も同じです。自分たちを構造化し、機能的に区分し支配している生産手段を奪取することはできません。もし彼らがそのような構造を革新的に変えることなしに、生産手段を一手に握ったとしても、ソビエト連邦で見られたように、同様の支配システムを再構築することで終わりを迎えることでしょう。また更にこの際、 このことは『経済学批判要項』 [7]でも言及されているということを指摘しておきたいと思います。
Adieuxは反対に、共産主義への批判論では全くありません。私は毛沢東主義、つまり神話的な無産者階級の原始主義への崇拝、毛沢東が中国人農民のために発案した土地を奪うという策略を、産業化され都市化された国で実行するという主張を非難しました。これはまた、俗マルクシズムが帰するところの 資本主義の社会民主化と賃金労働への賛美に対する辛辣な批判でもあります。 « Au-delà du socialisme »「社会主義の後に」、これは本の副題でしたが、社会主義の後に共産主義が実現されるか、さもなければ、現在我々が抱えているような腐敗状態に陥ります。 けれども共産主義というのは、十分な雇用を保障するものでも、全ての人々に給料を保障するものでもありません。資本主義における社会的にも歴史的にも特有な形態での労働、つまり雇用労働、商品価値としての労働を排除するものです。『Adieux au prolétariat』では労働批判を論じました。この著書は何点かの大変軽率な言動を含んではいましたが (自律的領域についての見解もそのひとつです) それだけにはとどまりませんでした。労働批判は『Misères du présent, richesse du possible』において、今もなお、中心をなす論点です。
分業に対する批判というのは、ますます強調される知識の重要性、富を創出するための相互協力、練達された労働によって、重大局面を迎えました。最後に書かれた論文『L’Immatériel』では、この変動について考察を試みていますね。
L’Immatériel』はいわゆる左翼的知識社会に関する国際学会で発表した報告書を作成するために書いた論文です。まず私が興味を抱くのは次のことです。つまり、知識や情報というのは本質的には全ての人々に所有される共有財産であり、従って、私有化されたり商品化されると、その有用性が損なわれるということです。しかしながら、決定的生産力 (知性や知識による生産力) が商品化されるのには適さない場合、政治的経済の伝統的な労働、価値、資本というカテゴリーは危険にさらされることになります。
経済資本家の考えでは、知識の価値というのは決定不可能なものです。それを作り出するために社会規模で消費されてきた労働を計ることなど不可能なのです。というのも、知識というのは、人々がインターアクションを行い、試み、学び、夢想するようなところにはどこにでも拡散されるように生み出されるからです。知識は均質のものではなく製品という単位に分解することはできません。そのために適応できる測定基準がありません。知識の価値というのは、商品の価値とは異なり、本質的で、特定的なものであり、共通基準に基づいて交換することができない芸術作品の価値に匹敵するものだと私は考えています。それらの値段は客観的根拠をもたず、変動的です。
最初に知識コストがいくらかかったとしても、無料で手に入れることができ、情報言語に書き換えることができ、取るに足らないコストで無制限に複製できるならば、その交換価値はなくなる傾向にむかいます。交換価値、つまり価格がつけられるためには、珍しいもので、誰もが手にいれるということが不可能でなければならず、価値の独占を要求し、そこから金利収入を得る会社によって私有化されなければなりません。
知識経済というのは、従って共有化経済であり、無償化経済であるという特性をもっており、いわゆる経済とは反するものなのです。科学分野の世界において知識経済が性質として自然と帯びるのは共産主義的なこのような形態です。知識の「価値」というものは、お金によって計られるのではなく、その価値が引き起こす利益、その普及力により評価されるのです。従って、知識資本経済の基本には、商品や商品交換、金儲けの懸念というものが認められない反経済体制が存在することがわかります。交換価値とは富を計るものでも、労働時間を計るものでもありません。
情報科学は、この原初的共産主義を表す最もよい例です。情報科学が科学とは異なるのは、その特異性のためです。つまり、情報科学は同時に知識であり、知識を生み出す技術であり、そして、製造、制御、発明、連携の手段であるからです。生産者と生産手段を構想する者との社会的区別は情報科学の世界では撤廃されます。生産者はもはや労働手段を通して、資本家によって支配されることはありません。知識を生み出すことと物質的あるいは非物質的な富を生み出すことは融合されます。固定資本というのは、もはや個別に実在するものではありません。主要生産力は機械でもお金でもなく、知識と富を生み出すのと同時に自らの認知能力を想像し考案し、そして向上させる手段となる活気あふれる情熱が主要生産力となるのだということを、具体的な実践をとおして経験した男女によって固定資産は包摂され内面化されます。自分自身を生み出すということは、ここでは富を生み出すことであり、またその逆でもあります。つまり富を生むことの基本は自己を生み出すことなのです。政治的経済で仕事がもつ意味においては、仕事というのは潜在的に切り捨てられます。「仕事はもはや仕事のようにではなく、(個人的な) 活動がまさしく発達したもののように捉えられます。」 [8]
ハッカーという仕事は、仕事の適応/廃止を表す例としてあげることができます。ハッカーによって、人間の生産能力は主体となります。そして資本家に搾取されることに抗し、情報科学の潜在的可能性を資本家に敵対するために用いることになります。Linuxやcopyleftという 著作権とは相反する反経済体制を作り出し、また無料ソフトを流行させたのはハッカーです。 ハッカーを通して、新しいコミュニケーション方法や、規制方法が登場します。つまり、無政府共産主義的な感嘆すべき倫理、ハッカーの倫理は、同時に、生きる芸術であり、様々な個人的あるいは社会的関係をもつことであり、資本主義を抜け出すための道や、我々の考え方、感じ方、欲し方を解放させて資本主義による影響から自由になる道を探すことです。
ハッカーらはエリート的な専門職でも、特殊な社会階層でもありません。Peter Glotz [9] [ピーター グロッツ] が述べているように、彼らはデジタル資本主義の反体制派に属しています。この反体制派は情報革命によって生まれ、米国では労働人口の約1/3を占めています。彼らは自発的隷従を拒否する能力の高い情報処理技術者で構成されています。例えば、キャリアのために全てを犠牲にするということを拒否する者や、「より多く、より早く」という獰猛な競争を拒む個人起業家、わずかに稼ぎ、自分の自由になる時間をより多くもつことを好むフリーターやダウンシフター (減速生活者) などです。
「デジタル資本主義の影響力が我々の生活に及べば及ぶほど、このような人々は更に増えていくだろう」とPeter Glotz [ピーター グロッツ] は書いています。「そして彼らから新しい世界観念が現れるだろう。デジタル技術の労働者階級がエリート階級に対抗する闘争は、人生に関する二者の異なる本質的で感情的な観念が争点となる。現代の資本主義における社会倫理全てが問題となる」。
訳者 山本容子