「次世代のために環境破壊をやめるべき」という主張に正当性はない | クーリエ・ジャポン

★★★:バランスよく議論できる
★★☆:意見を吟味する
★☆☆:客観的情報
☆☆☆:議論用ではない
☆☆☆:議論用ではない
ある特定のオピニオンが述べられる
ある特定のオピニオンが述べられる
いつ登録したか
Jan 26, 2021 11:30 PM
オピニオンが含まれない
オピニオンが含まれない
カテゴリー
両論が併記される
両論が併記される
事実ベース
事実ベース
立体的(多角的)
立体的(多角的)
考察的・思想的
考察的・思想的
複数のオピニオンが含まれる
複数のオピニオンが含まれる
調査、データ、観察的
調査、データ、観察的
notion imagenotion image
Photo: Simone Busatto / Unsplash
なぜ環境破壊を止めるべきなの? この問いに対する答えは人によって変わるはずだ。よく聞く理由の1つとしてあげられるのが「未来の子供たちのため」。一見すれば筋が通っているように思えるこの動機だが、哲学的に考えると矛盾が生じるのだという。
疲弊した地球を次世代に遺すこと。人類を滅びに導く生き方を続けること。そのいったい何が悪いのか──この問題を深堀した先に見えてくる答えとは?

まるで悪魔の証明

私たちは終末的な時代を生きている。世界の温暖化ガス排出量は相変わらず増え続けているし、各国の政策が変わらなければ、今世紀末までに地球の温度は産業革命前よりも3度上昇という壊滅的な変化を遂げる見通しだ。
同時に人類は、頼みとなる自然をどんどん破壊し、穴を掘り、舗装し汚染している。種の絶滅率が数百万年来最高レベルに跳ねあがったのも不思議ではない。この地球では今、6番目の大型絶滅が進んでいる──そう多くの科学者が結論づけている。
一方、人口は2050年に97億人まで増加すると見られている。気温が3度上昇し、不可逆的な種の絶滅が起こった世界で、それだけの人間をサポートできるかは分からない。人類が大量絶滅の犠牲にならずとも、これから数年で劇的に方向転換しなければ、いずれ惨めな未来が訪れることは確かなようである。
こうした事実を受け、「エクスティンクション・レベリオン」や「気候のための学校ストライキ(Youth Strike 4 Climate)」などの環境保護運動が驚くべき速さで広まった。そうした運動の参加者たちは、世界の怠慢に対して道徳的な怒りを燃やしている。
だが、驚くほど難しい問題がひとつある。
燃え尽き、疲弊した世界を未来の世代に残すことの、いったい何が悪いのか──これを説明することが、実はとても難しいのだ。

行動すれば「守るべき人間」は存在しなくなる

この問題の根源は30年以上前、イギリスの哲学者デレク・パーフィットが著書『理由と人格―非人格性の倫理へ』で明らかにしている。
パーフィットが指摘するように、アイデンティティとは不確かなものだ。人間は特定の卵子と特定の精子の出会いの結果存在している。受胎が少しでも遅れれば別の卵子と精子が出会ったはずで、今いる人間は存在しなかったはずだ。
想像してほしい。例えばあなた自身が母体に宿った後すぐ、同じ両親から2番目の卵子と精子が人口子宮に着床し、人間が育ったとする。その人物は「あなた」ではない。仮にその人物があなたを傷つけたとして、その行為は「自傷行為」と見なされないのだ。
つまり人間の存在は、ちょっとした状況の違いによって大きく変わってくるということ。受胎前の親が行動や生理、環境をわずかに変えただけで、あなたではない「誰か」が生まれたはずだった。生まれることなく終わった何億もの「誰か」と同じように。
壊滅的な気候変動を避けるうえで必要な変化は小さくない。世界中の人間の行動や、住む場所、パートナーと出会って子供を産む時期までをも変えるような、とてつもなく大きい社会的・経済的変化が必要となる。
では、壊滅的な気候変動を避けるための軌道修正をせず、結果として地球が住みにくい場所になったとしよう。するとそれを継ぐ者たちは、私たちが「軌道修正をした場合に存在した人間たち」とは別人だ。疲れきった地球を継ぐ者たちは、現世代の怠慢のおかげで生まれることになる。私たちが未来を思って行動したなら、そもそも「彼ら」は存在しないはずだからだ。
これこそ、この問題の重要な点だ。
化石燃料を燃やし、生態系を破壊することに反対する理由として「未来の世代に危害を与えないようにするため」という主張はよく使われるものである。実際、こうした「未来人が直面する危害」が議題に上がったとき、今いる私たちが何かしらの行動をとれば「未来の人類はより安全に暮らせる」と思いがちだ。
だが私たちが行動をとっても、私たちが想定している「彼ら」の安全は保障されない。その「彼ら」が存在することすらないのだから。
「子孫」という存在に関する現代の哲学的思想には、パーフィットが大きな影響を与えてきた。「まだ存在していない者は、現在の私たちの行動で傷つけられることはない」。そうパーフィットは示唆している。私たちが行動を「変えなかった場合」と「変えた場合」では、生まれてくる人間が違うからだ。
さらにパーフィットは、未来人の「生きやすい地球環境で生活する権利」を主張することでこの問題を解決することは、難しいと考えている。私たちが「環境を破壊し続ける権利」に反対することは、事実上、未来人の「生まれてこない権利」を主張することになるからだ。
「未来人を傷つけないこと」を理由に環境保護を義務にしたところで、未来人たる「彼ら」は結局傷つかない。故に、現代を生きる人間が環境破壊をやめる理由にはならないだろう──そうパーフィットの問いはほのめかすのだ。
そこでパーフィットが掲げたのが「善行の義務」──つまり、未来に「誰が存在するか」に関係なく、単純にこの世界でできる限りの善を行うことを「行動の動機」として主張することを提案したのである。
環境保護を語るとき、この「善行の義務」の強みとは何だろう。
「安定した気候と豊かな生態系を守るために行動すれば、何も行動しなかった場合に迎える世界より、ずっと良い世界を作れる。だからこそ環境を保護すべきだ」
こう主張できる点だ。
だがやはり「善行の義務」にも穴がある。道義としても、動機づけとしても、弱すぎるのだ。
「他者を傷つけない」という原則には説得力があり、ほとんどの人間は大変な努力をしてでもそれを守るだろう。だが「他者の生活を改善すること」を理由に何らかの行動を禁じても、同じ効果は得られない。
例えば「殺人を犯す人」と「慈善団体へ寄付しない人」を比べたとき、前者の方がずっと数が少ないものだ。環境危機に関しては、パーフィットの主張をもってしても、必要とされる改革は生まれない可能性が高いだろう。
今すぐ軌道修正すべき理由として「未来の世代を傷つけないため」と訴えることはできない。 一方で「善行の義務」を訴えても、この問題の切迫感は十分に伝わらない。
解決法はないのだろうか?

生きた証明が欲しい

この問いに新手の答えを提案したのが、アメリカ人哲学者のサミュエル・シェーファーだ。
遠い未来の大惨事を防ぐうえで一番説得力のある動機。それは「未来の世界」が実は現代人の人生に深く関係している関心事でもある。だから未来について考えるべき──というものだ。
シェーファーによると、生殖し物事を継承してきた先人に続いて行列に並んだ人類は、すでに子孫という存在に深く関係している。「人類は絶滅する」と聞かされた者の多くが絶望を感じ、気候危機に直面している大勢の人間が苦悩しているのだ。こうした心の動きは、子孫の存在を不可欠だと人間が認識している根拠とも言える。
だが絶望していても、私たちは「未来の世代の存在」を前提とすることで膨大な努力をし、人類を存続させるために踏ん張れるものなのかもしれない。例えば、この世界を改善しようと努力する医学研究者や政治活動家たちは、目標が達成されるのは自分たちの死後になるだろうことを理解している。
私たちは、長く深い歴史と背景を持つ、世代を超えて継承された活動に関わることで、自らの人生に意味を持たせようとする。哲学や文学、スポーツ、宗教などがその最たる例だ。人は世代を超えた智恵や伝統、功績を伝えてゆき、人間社会の可能性を考えさせてくれる何かに重きを置いて活動する。教育や芸術もそうだ。
私たちが死んだずっと後も人類が繫栄できる環境がある──そんな未来を作る努力に価値があるのは、こうした前提があるからこそだ。シェーファーが語るように、私たちは政治活動や学問、スポーツをする理由を「一時的で偶発的なもの」と見なしていない。人は、自分が世代を超えたプロジェクトや歴史の一部であることに価値を見出す。先代が残し私たちへと受け継がれたものに、自らも貢献したあとを残して後継者に渡すのだ。
シェーファーが正しいのなら、ずっと先の未来にいる人類に、思ったよりも遥かに大きなものを私たちはかけている。これは単に「人が生き残れるか」の話だけではない。人生に意味や目的を持たせてくれる伝統や行為、言葉を継続しながら、人間が繁栄し生きることに繋がるのだ。
私たちは自分自身と、周りにいる人々がより良い生活を送れる環境を望む。それはつまり、自分の追い求める何かが意義あるものであることを望み、大切にするものが残ってほしいと願う心の表れだ。私たちの取る行動や大切にするものは、次世代の幸せな暮らしに繋がってゆく。追い求めた未来の先に、私たちがもういないとしても。
気候危機に取り組むうえで必要な組織的変化は今、後回しにされている。だが軌道修正をしなかった場合に私たちが失うものがどれほど大きいか示したいなら、シェーファーの洞察は使えるかもしれない。温暖化ガスの排出、環境破壊、大量の種の絶滅は、私たちの人生を有意義にしてくれる「未来の世代」を確保しづらくしてしまうのだから。
問題は、私たちが次世代に対していかなる義務を負っているかではないのだ。 本当は、私たち自身が「彼ら」の繁栄に、この上なく大きな関心を寄せているのである。
新着順
notion imagenotion image