国・地方を通じた経済・財政改革への課題|内閣府 経済社会総合研究所

★★★:バランスよく議論できる
★★☆:意見を吟味する
★☆☆:客観的情報
☆☆☆:議論用ではない
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Jan 25, 2020 11:26 PM
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調査、データ、観察的
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先般、経済財政諮問会議では、国・地方を通じた経済・財政再生を進めるためのアクション・プログラムを決定しました。同プログラムでは、特に基礎自治体レベルでの行政サービスの需要・供給構造の「見える化」と改革が強調されています。今回のインタビューでは、地方財政運営を中心として精力的にメッセージを発信している井手英策先生に、ご意見をいただきました。

財政健全化が財政運営の目的ではない

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— 政府では、経済財政諮問会議が中心となって、2000年代以降財政健全化に取り組んできました。その取り組みやメッセージの出し方等について、どのようにお考えですか。
財政学の教科書を読むと、財政とは「公共の経済」だと説明されています。経済全体ではなく、人間の「共同行為としての経済」の一部をなすものなのです。財政健全化は財政の目的ではありません。財政は生活をよくするためのもので、財政健全化がどのように生活を豊かにするのか議論されねばなりません。僕は、財政の収支よりも、人びとのニーズをいかに満たして国民の厚生を引き上げるか、また受益の強化を通じて、租税抵抗をどう和らげるかを考えるべきだと思います。僕の考えの根底には、シュンペーターやポランニーの議論があります。経済とはむしろ歴史的には非経済的なものです。つまり、経済とは人間の物質的欲望を満たす「あらゆる手段」と広く定義されるべきなのです。物質的欲望を満たすためには様々な方法があります。一つはお互いの持っているものを交換すること。もう一つは田植えをみんなでやるとか屋根の張替えをやるといった形でお互いが助け合う互酬。また、困っている人がいた時に物資を分け与えるといった再分配という方法もあります。互酬も再分配も、現在では、「非経済的」だと考えられますが、すべて物質的欲望を満たす手段であり、なにも交換だけが経済ではありません。しかし、交換=市場という発想が強く、経済効率性ばかりに関心が寄せられます。今回の経済財政一体改革になぜ至ったかに関し、財政一辺倒の議論を行うのではなく、経済状況に応じて柔軟に対応していくことを目的としているために「経済財政」という名前が一緒に入っているということなのだ、とは理解できました。ただ、「経済財政諮問会議」という名前はやはり象徴的です。この会議では、経済的効率性と財政緊縮を求める議論が中心で、限定的な議論となっている印象を持ちます。経済や財政を考える場合、いわゆる市場での経済的効率性だけではなく、社会的効率性や民主的効率性、租税抵抗の緩和という意味では、政治的効率性も捨象すべきではないと考えます。財政は、市場経済とは異なる領域の経済ということで「公共の経済」と呼んでいるのでしょう。財政の本質は市場における交換以外の互酬や再分配という、非経済的だが、本質的には経済的なものから成り立っていると考えられます。
— 社会保障・税一体改革の完遂については、どのようにお考えですか。これもある意味、社会保障財政の収支尻を合わせることが目的ではありますが。社会保険から社会支援へのシフトの重要性を指摘する議論もあります。
もちろん、僕も財政を健全化すべきだと考えていますし、社会保障について議論を行うことも必要です。ただ、その根っこの問題がある。社会保障という言葉は、ビスマルク型の「社会」保険と大恐慌期に求められた経済「保障」からなっています。日本では、勤労することが義務で、政府に頼らず、自分で貯蓄をして、将来に備えることが前提です。私は日本の福祉国家は「勤労国家」だと言っています。勤労して退職した尊敬すべき高齢者には「報酬」として年金や医療を手当てし、働いて所得を得ることができない人については、「施し」として経済保障を充てるという建付けです。日本では、高齢者の報酬と、働けない人の救済=経済保障が強調されすぎ、生存保障を超えた生活保障という考えが弱い。そのため、現役世代向けの保育や教育といった現物給付が十分行われていません。社会保障の収支尻を合わせると言っても、社会保障に偏りが大きく、一部の世代のニーズが放置されています。
社会保障と財政健全化に関するものとしては、社会保障・税一体改革の方法は、大変重要で評価されてよいスキームだったと思います。というのは、社会保障のニーズを充実させるためにいくらお金がかかるかを考えるという受益と負担の議論を行い、財政ニーズを満たすために増税をするという説明を行っているからです。今後も社会保障と税の関係を考える、この方法しかないでしょう。付加価値税の5%という大増税が通ったのですから、説得的なストーリーだったと思います。しかし、初年度の税収の5兆円増のうち、10分の1の5,000億円しか受益に当たっていないため、国民からは負担感しか出てこなかったのが致命的な間違いでした。
たとえば、今回の最終的な増収額14兆円のうち、半分ぐらいをすべて現物の受益に充てるとする。私なりの仮試算を行うと、大学の授業料、幼稚園や保育園の利用料、介護の自己負担が無償化され、自治体病院の赤字補てんもでき、大変な受益感を得られたと思います。こうした公共サービスの充実といった実態的な受益や、失業や障害に直面した際に公的な助けがあることを経験する人が増えれば、増税のメリットが浮かびあがったと思います。たとえばスウェーデンでは、減税が提案されましたが、公共サービスの質が落ちるからということで、国民の反対を受けて撤回されました。スウェーデン人がえらいとか、愛国心があるというわけではなく、受益があるから負担もするという話です。
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消費税については、税率10%まで引き上げたあとは、あと2%程度ならOECD諸国の平均に近づくという意味で、コンセンサスは比較的とりやすいでしょう。しかし、その2%の使い道をちゃんと考えなければだめです。5%のうちのたった1%の受益増、しかも薄まきにしてしまうから、受益感に欠け、5%への引きあげすら先送りされた。もっと問題なのは、社会保障・税一体改革で諮られた5%の増税のうち、受益の純増がなぜ1%だったかを説明できる国民が恐らくゼロだということ。正直な話、僕も説明できません。これは、民主主義が機能していないことを示唆するもので、僕が一番不安に感じている点です。説明としては、年金給付の2分の1を国庫負担で賄うとした約束事があります。でも、これまでの国庫負担の財源とされたのは、「一般会計」の「つなぎ国債」であって、「年金特会」のそれではない。消費税の増収を年金にまず充てるという説明は論理的に理解できません。
また、消費税の関係では、軽減税率は低所得者対策ではなく、ばらまきであるといった批判があり、私も事実においては正しいと考えますが、国民からは支持されています。低所得層対策になってはいないけれど、広く受益者がいるからこそ、人びとは賛成する、という点に本質があると思います。税収を増やす段階で、人びとのニーズを広く満たす。このことの重要性を理解しなくては、増税が難しい国家となってしまうのではないでしょうか。

経済・財政再生アクション・プログラムとその成果指標について

— 経済・財政再生アクション・プログラムでは、改革項目毎に成果指標を設定して、丁寧にPDCAを回していくこと、「見える化」により国民への理解・納得感を広げること、また、「ワイズ・スペンディング」により政策効果が高い必要な歳出への重点化を進めることを柱として、これから2020年度のPB黒字化に向けて取組を進めていくこととしています。
政策の効果を検証すること、また経年変化等を考えることは重要です。これらの考え方をとることにより、大きく認識が変わる端緒になると思います。ただ、評価を行う際の数字の解釈はイデオロギーによるものとならないよう、注意が必要です。たとえば、体を健康にするために支出を行うのであり、財政健全化を目指し、医療に対する財政支出を減らすためにみなさんを健康するわけではありません。
また、このアクション・プログラムの「制度・地方行財政分野」の中に、歳出効率化に向けた業務改革で他団体のモデルとなるものを基準財政需要額の算定に反映するという「トップランナー方式」という制度が掲げられていますが、これは交付税制度の理念の転換となっています。そもそも交付税とは、財源保障とともに地方全体の財政調整をおこなう仕組みですが、前提のあるのは成長です。この仕組みは、国が成長期にある時にできたモデルで、地方から都市への人口流出を受けて地方での税収が十分とならない場合に、各地方で最低限のサービスを行うための財源として配分するという垂直的配分の考え方が前提にあります。今後は、人口縮減期となり、成長率はかつてより落ちていく状況となります。パイが増えない中ではどう地域間の再分配をするのかということになり、今回のようなトップランナー方式のようなロジックが必要になったのだと思います。
ただ、もっと丁寧な議論が欲しい。まず、制度の前提が変わったことを理解すべきで、今後は、基本的にナショナルミニマム、行政水準をならすという交付税と、生活の底上げのために自治体が主体的に財源を模索するドイツの共同税のようなイメージのものとを切り分けて考えなくてはならないでしょう。何が本当のナショナルミニマムなのかという水準は主観的なものとなりますが、国の責任でやることは国の責任でやって保障していきつつも、トップランナー方式などの目眩ましではなく、全体を底上げするという目的のために、地方が痛みを分かち合う仕組みを考えていくべきです。ただ、交付税の仕組みについても、国税として一旦吸い上げたものを地方に再分配する垂直的な方法が難しくなってきた状況ではあるものの、いきなり水平的な制度に変更してしまうと、いわゆる東京問題、あるいはストックホルム問題と呼ばれるような、東京が交付税の仕組みから逃れて制度自体が破綻するような事態を招く懸念があります。ですから、本来の垂直的な交付税の仕組みは残しておく必要があると思います。ですが、地方法人税やトップランナー方式のように、交付税の仕組みを弥縫策として変更するのではなく、今度は地方税の仕組みをきちんとつくるという努力をすべきだと思うのです。地方税法を改正して地方消費税率を全国で一斉にあげられるようにする。あるいは新たな財源を設けてもいいでしょう。増税の前には、知事会など地方自治体同士でニーズの議論をする、全体で引きあげられた税収を市町村に交付するという仕組みもいいでしょう。
私は国としては施策を行うことで自治体を誘導すべきではなく、自治体が行う政策は自治体の判断で決めるべきだと考えています。交付金を出しても使い切れないところもでている。もし住民が過剰な財源措置が不要だといえば、それに委ねるべきであり、これが民主主義だと考えます。英語では自治には、セルフガバメント、オートノミー(自律性)という2つの言葉があり、住民自治の考えはオートノミーの考えです。「自律」はとても大事な概念です。分権論議も、今回の改革も、残念ながら地域の人々が自分たちで決めるという、自律に関する発想がないのです。
2000年代以降、地方分権はかなり進んだと思いますが、タイミングが遅かった、地方で顕著に人口減少や高齢化が加速する中では、むしろもう少し国からの支援を強化すべきという議論もありますが、どのようにお考えですか。また、ローカルガバメント論と先生のオートノミーの考えは、同じ方向性のものと理解してよろしいでしょうか。
やや遠回りな議論になりますが、もともと地方自治という言葉はありませんでした。「自治」とは、フランシス・リーバーの“Civil Liberty and Self-Government”の“Self-Government”を翻訳するときに生まれた言葉で、国と地方、両方の自治、つまり、欧州の共和制が念頭に置かれていました。しかし、日本においては当時、明治憲法体制が議論される時期にあって、共和制を認めることはできません。そこで「自治」に「地方」をつけて、この議論を国から遮断し、地方は、国の支配のもとで、自分たちで問題を解決しなさい、そういう支配の手段という意味で「地方自治」という言葉が生まれた、そう言われています。よく「地方分権」や「税源移譲」という言葉が使われますが、これは反権力的な立場から、集権を批判し、「地方自治」を逆手にとって、地方に任せれば物事がうまく運ぶといって、国の権限を削減する政治力学と重なってきました。実は、国から地方に権限を移すことによって世の中がよくなると証明した人は一人もいないわけです。
日本国憲法には「住民自治」があり、これは先に触れたように、「住民自治」の考えはオートノミーの考えです。私が思うのは、国の関与を強めるのでなく、また、地方に権限を移せば良いというだけでもなく、むしろオートノミーの考え方にたち、自分たちで物事を決められる仕組みをもっともっとつくるべきだと思っています。しかし、自分たちが必要なことを行うためには、自分たちできちんと「税を払う」ということをやってもらわないといけない。それが自治のはずなのです。
一方、「ガバナンス」は統治されている状態をさしていますが、問題はその中身です。地方自治によって地方に任せれば物事がうまく運ぶと考え、国から権限を奪う方向性が示されます。私も実際にはそのように考えていますが、その先の「自分たちで税を払う」という点は、放ったらかしにされてきた。だから、「税源『移」譲」、つまり、税の総額は一定で取る主体を「移す」という奇妙な議論も生まれたといえます。明治期の限定的な「セルフガバメント」論に端を発する国と地方の権限争いに終始していると、「オートノミー」の話には行きつかないでしょう。
私は生活の底上げのために共有税を提唱していますが、そのイメージは、地方の人たちが自分たちで必要なものを議論した上で、自分たちで税を上げるための仕組みを考えようというものです。ただし、あくまでも交付税が生存保障をしたうえで、というのは、注意してほしい点です。地方が増税というと、すぐに交付税削減という議論にすり替えられますからね。それが前提なら、国が地方に支援を手厚くするより、自治体で集めた財源を、自分たちで使うことのほうが望ましい。少なくとも県のレベルであれば、それぞれの市町村がどういう状況にあるか、国よりも絶対にわかるはずです。そうすると、もっと効率的な配分ができるはずですよね。国にまかせて、いきなり過疎地域の人たちに大きな交付金を与えるというやり方ではなくて、もっと必要に応じた、政治的、社会的、そして経済的に効率的な配分ができるはずです。
その意味で私は、交付税のように上から下に行くというベクトルだけではなく、下からどう上に持っていくかということを考えています。それが、日本全体が貧しくなっていくなか、自分たちで決め、自分たちで動かしていくことで、納得感や満足感につながっていくと思うのです。
さらなる交付金という最近の動きは、その意味でずれています。おっしゃるように、使途が自由なブロックグラントを1980年代にやるという議論ならよかったと思います。でも、今はそういう状況ではない。もっと能動的に、地方が自分たちで財源を確保し、生活を保障する仕組みを真面目に考えたほうがいいと思います。
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— 自助、共助、公助という概念についてはどのようにお考えですか。
大平内閣時代の77年に日本型福祉社会論から出てきた概念を40年近く使い続けているということになります。「自助」というのは経済的に自分自身で生きていけることを示し、共助というのはコミュニティが存在していることを示しています。当時は、自助や共助が成り立ち得る前提条件が弱まり、公共事業を通じて経済成長させ、自助の機能を高め、コミュニティの機能をイデオロギー的に強化して共助の役割を強化してきました。ところが、90年代の半ばから一貫して所得が落ち続け、共稼ぎが多くなったのに平均所得は2割近く落ちてしまい、「自助」が成り立たない状況となりました。また、統計的にもコミュニティの親密度は低下の一途をたどっていて、助け合いはすでに現実性がなく「共助」も弛緩しています。たとえば、女性が活躍する社会を考えてみましょう。かつては福祉国家の重要な機能を専業主婦が果たしてきましたが、この専業主婦が家庭から出ていくと、自助ないし共助の仕組みは失われ、間違いなく公助が大きくなっていくはずです。しかし、公助=財政支出を制限するのであれば、自助と共助で耐えられないような状況なのに、耐えることを強いることになります。自助や共助の本来の意味を考えて検討すべきところ、おざなりにされている印象があります。

経済成長と財政の健全化をすすめるために必要なこと

— アクション・プログラムを推進するという観点も含めて、政策研究が重要だと考えています。そのため、学界とも交流し、具体的な取り組みを進めていくことが重要だと思われます。
私は財政問題を考える際には、「社会科学」という総合的な出発点に立つべきだと考えています。もちろん、経済学の枠組みにおける効率性で財政を見ることにも意味はあると思います。しかし、繰り返しになりますが、社会的、政治的、民主主義的効率性も重要で、その点からも、社会科学という視点はもっと尊重されていいと思います。人間はそもそも総合的な生き物であって、その人間が作る社会は果てしなく総合的なはずです。経済学的な効率性を追求することで説明できる部分もあるでしょうが、財政再建ひとつをとっても、それでは説明できない部分がほとんどだということを意識しながら議論を進めていくべきでしょう。その際、財政を突破口にしながら、この社会をもっといろいろな角度から考える勉強会のようなものがあるとよいのではないでしょうか。私もいま、私の専門領域とは異なる人たちと会話し、社会を多角的・多面的に捉え、財政を見つめなおす取組みを進めています。
将来を展望する場合、たとえばオリンピック後の日本を構想するにあたっては、様々な選択肢のもとで議論できる状況が必要でしょう。もちろん、財務省などが提示している歳出削減型の財政健全化を考える方法があっていい。同時に、それ以外の財政再建モデルも選択肢として示していかなくてはならないのではないでしょうか。政治家は国民を代表するもので、国家を代表するものではないと思います。5年後、10年後の社会を構想しようとする人たちはたくさんいますし、国民の議論の材料もたくさんある。好き嫌いはあるでしょうが、様々な人たちとディスカッションする場を設けなければ、財政の前に、社会の持続可能性が失われると思います。
— 本日は、今後の取組をすすめるにあたって、また私ども内閣府の議論を深めるにあたって、貴重なお話をいただきました。ありがとうございました。
(本インタビューは、平成28年1月28日(木)に行いました。)
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