「ルールのない世界」があるとして、人はそこで生きられるのか? | クーリエ・ジャポン

★★★:バランスよく議論できる
★★☆:意見を吟味する
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☆☆☆:議論用ではない
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Aug 8, 2020 12:53 AM
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Photo: Martin Barraud / Getty Images
民法や刑法から、交通ルールに校則、挨拶などの儀礼……この世には挙げればきりがないほど「ルール」がある。新型コロナウイルスが世界に広まってからはソーシャルディスタンスを取ることが世界のルールに新しく加わり、マスクを着けずに外へ行くことは憚られるようになった。こうしたルールだらけの世の中に嫌気が差すこともあるだろう。そして実際のところ、ルールはなぜ存在するのだろうか。そもそも本当に必要なのか? 読者からの素朴な疑問に行動科学者が答えた。

問:ルールは本当に必要ですか?

「私は20代後半ですが、ルールによる束縛がどんどん増えているように感じます。エスカレーターでは『右側にお立ちください』と決められ、公共スペースでは『スケートボード禁止』と言われ、さらに『結婚し、一軒家を購入し、子供を持て』と期待されるような暗黙の社会的規則まであります。本当にこういったルールは私たちに必要なのでしょうか?」──ウィル(28)、ロンドン

ルールがなければ自由になれるか

私たちはみな、制圧的なルールの存在に影響を受けている。実際、それこそが人生の「法則」なのだ。
公共の場、組織の中、ディナーパーティー、親族や友人間、日常の会話のなかですらも、規制や形式的な決まりが、人々の一挙一動を支配するかのようにあふれかえっている。
それに対し私たちは「ルールとは自由への冒涜だ」と非難し、「ルールは破るためにある」と主張する。
だが行動科学者としての私が思うに、ルールや規範、慣習それ自体の存在が問題なのではない。それらが正当性を欠いている場合が問題なのだ。その違いを認識することは意外に困難だが、重要である。
手始めに、ルールのない世界を想像してみよう。
そもそも私たちの肉体は、生きるために精密で複雑な生物学的法則に従っている。これがなければ、私たちは絶望的な運命をたどることになるだろう。
また、私が今まさに書いている言葉も文法というルールに則っている。このルールからの解放を夢見てしまうこともあるかもしれないが、「言語学的自由」は何かの役に立ち、私の思考を解放してくれるのだろうか?
ルイス・キャロルによる「ジャバウォックの詩」のように、「文学的無秩序」によってある程度の成功を収めた者もいる。だがやはり言語のルールから逸脱したからといって、何にも干渉されない「解放された者」になるわけではない。
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『ジャバウォックの詩』とは『鏡の国のアリス』に登場するナンセンス詩で、架空の怪物「ジャバウォック」を倒す場面を描いているPhoto: Hulton Archive / Getty Images
詩人のジョージ・ゴードン・バイロンは私生活においてはルール破りとして悪名高かった一方で、詩作においては脚韻と韻律の規則にこだわった。たとえば『When We Two Parted』はバイロンの禁断の恋、つまり「ルールを破った恋愛」を描いたものだが、既成の「詩のルール」に正確に従っている。それこそがこの詩をいっそう力強いものにしていると広く論じられているのだ。
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イギリスの詩人で男爵のジョージ・ゴードン・バイロン。大勢の女性と恋愛関係にあったPhoto: Stock Montage / Getty Images
では、ルールというものがいかにスポーツやゲーム、パズルにおける本質であるかをじっくり考えてみよう。
たとえばチェスをしていたとして、王手を逃れるための「キャスリング」(駒の動きに関する特殊なルール。キングとルークを一度で同時に動かすことができる)ができないと言われたら、私の怒りは爆発するだろう。同じく、オフサイドに腹を立てたことのないサッカーファンがいるだろうか?
チェスもサッカーも、ルールなしにはチェスにもサッカーにもなり得ない。ルールがなければ、それは秩序も意味も一切ない活動にしかならないのである。ルールのない試合は試合にあらずということだ。
多くの日常的な慣例もまさに試合のルールのように機能し、人の行動の良し悪しを定めている。
いちいち「お願いします」や「ありがとう」を使うべきとされる慣習は、小さな子供たちにとって鬱陶しいものだろう。
これらの言葉を使うかは、たしかに恣意的なものではある。だがそういった慣習を持ち、重視するのは、その慣習が持つ「意味」が人々の間で一致しているからだ。それこそが、社会における私たちの相互関係を円滑にしている。
左側、もしくは右側で運転すること、赤信号では停止すること、列に並ぶこと、ポイ捨てしないこと、犬のフンを処理すること──こういったルールも同じ範ちゅうに入るだろう。
これは、円満な社会の構成要素なのである。

それは自発的に生まれる

当然、昔から形式にとらわれない社会を求める者もいる。政府の存在しない、個人の自由が優先される世界──アナーキー(無政府状態)だ。
しかしアナーキーの問題は、本質的に不安定であるということだ。結局人間は繰り返し、またおのずと、行動や情報、経済交流を管理するために新しいルールを生みだす。それは古いルールが取り払われていくのと同じくらい速いスピードで行なわれるものだ。
スポーツに話を戻そう。もともとスポーツの試合とは、ハッキリとしたチームも形成されないまま、ケンカになりながらも豚の膀胱を村の端から端へと蹴ることから始まったのかもしれない(ラグビーでは元々、豚の膀胱に空気をいれて膨らましてボールを使っていた)。しかし約200年後には、複雑なルールブックが試合のささいなところにまでルールを定めるようになった。それを監督する国際的な運営組織まで設立されている。
政治経済学者のエリノア・オストロム(2009年ノーベル経済学賞を共同受賞)は、人々が共有地や漁場、かんがい用水などの資源を共同管理する際には、いずれの状態であっても自然とルールが構築されることを確認した。
オストロムはまた、人々が協働してルールを構築することも見いだしている。たとえば、一個人が放牧できる牛の頭数、その時期と場所。誰がいくらの水量を得るのか。資源不足の際の対応策。誰が誰を管理するのか。争議解決のルールはどうするのか──などといったルールだ。
こういったルールは統治者が上意下達で課すものではない。相互合意が可能な社会的・経済的交流が必要なため、自発的に生まれてくるのである。
ただ抑圧的で、何の意味も持たない不当なルールを覆そうとする衝動はまったく正しい。
ただしある程度のルールの存在を認め、そのルールを守ろうとする私たちの性質がなければ、社会はあっという間に大混乱するだろう。実際多くの社会科学者は、ルールを作り上げ、それに固執し、施行する私たちの傾向を、社会的・経済的生活における大きな基盤だと考えている。

人は3歳から違反者を指摘する

こうしたルールと私たちの関係は、人類特有のものではないらしい。儀礼的な行動をする動物も多いのだ。ゴクラクチョウの奇妙で複雑な求愛ダンスは良い例だろう。
ただし、こういった行動パターンは遺伝子に組み込まれているものではある。先代の鳥たちによって「開発された」ものではない。
また、人類は違反者を罰することでルールを確立し、維持するが、人類に一番近いチンパンジーでもそういったことはしない。彼らは食事を盗まれたら仕返しをすることはある。しかし重要なのは、近親者が被害にあったとしても、チンパンジーは盗みを罰しないということだ。
人類において言えば、ルールは幼少時に定着する。
子供は3歳頃までに、ゲーム遊びを通してまったく無作為にルールを作ることが実験で証明されている。さらには実験者が遠隔操作している人形が現れ、ルールを破りはじめると、子供たちは人形を非難し「間違ってるよ!」と指摘しはじめる。そして、人形に正しいルールを教えようとまでするのだ。
私たちの抵抗にもかかわらず、たしかにルールは人間のDNAにしっかりと組み込まれているようである。
実際、恣意的なルールにしがみつき、それを施行する人類の能力こそが、生物種としての成功における重要なカギなのだ。
もし一人ひとりがすべてのルールの理由づけ(なぜ左側通行をする国があれば、右側通行をする国もあるのか。なぜ「お願いします」や「ありがとう」を言わないといけないのか……)をイチからしなければならないとしたら、私たちの思考は停止するだろう。
その代わり私たちは、思考停止するような余計な質問をせずとも、複雑な言語体系と社会規範を学習できるようになっている。

「良いルール」を見定めて守ろう

だが、注意は必要だ。そこには暴政も存在する。
特定の態度や行動を取ることを他者に強制したい──そんな強い感情を人類は持っている。正しいつづりを守れ、教会では脱帽せよ、国歌斉唱の際は起立するべし──これらは正当性とは無関係だ。
「これは皆がするものだ」から「これは皆がするべきものだ」へと変化していくことは、よくある誤りだろう。しかしそうした意識は、人間心理に深く埋め込まれている。
ルールにおける危険性の一つは、勢いがつきすぎたあまり、服や食べ物の規制、神聖物の正しい扱いなどの恣意的なルールに人が取り憑かれてしまうことだ。それを維持するべく、違反者にむごい厳罰を科す恐れがある。
政治的イデオロギーの信奉者や、宗教に対する狂信者がそのような懲罰を人に与えるのと同じく、抑圧的な国家やパワハラ上司、威圧的なパートナーも似た行動をとるものだ。彼らにとって「ルールには絶対服従であり、それがルールだから」である。
さらに、決められたルールを批判すること、あるいはルールを周囲にも守らせる努力を怠ることまでもが、違反行為になってしまう。またルールが常に増加、拡大解釈され続け、次第に個人的な自由が無くなっていくこともある。制約や安全規制、リスク判断などの項目は果てしなく増え続け、当初の目的からはるかにズレてしまうのだ。
たとえば、古代建築物の修復における制約があまりに厳しすぎればいかなる修復も不可能になり、その建築物は結局崩壊してしまう。新しい森林地帯の環境査定もあまりに厳しすぎれば、植樹はほぼ不可能だ。新薬開発における規制があまりにも煩雑だと、価値ある薬品も世に出るチャンスを失ってしまうだろう。
個人も社会も、ルールとの終わりなき戦いに直面する。だからこそ私たちは、定められたルールの意図に敏感でなければならない。
たしかにエスカレーターで「右側に立つこと」は大勢の通勤時間短縮につながる。だが、どう考えても人々に恩恵を与えないルール──人を差別し、罰を与え、非難する慣習には、とりわけ注意を払うべきだ。後者は暴虐の手段となり得る。
重要なのは、ルールに従いながらも、常にルールの根拠を問い続けることだろう。ルールとは、私たちの同意のもとにあるべきものなのだ。